@kentarotakahash
まじで先週末から、多忙局面に突入したので、返事が遅くなりました。
以下、返事です。

もともとの森本さんのダンスホールのゲイ・バッシングに関するエントリ。
http://www.beats21.com/ar/A07111302.html

一言で言うと、「彼女はこれは簡単な問題ではない」という見解で、外国の人権団体がどうしたいのか、の分析を試み、その上で、ジャマイカの事情も理解して欲しい、と書いている。むろん彼女は、ゲイ・バッシングを正当化しているわけではなく、ゲイの親友がいることも述べている。

文章の要旨は、「微妙で複雑な問題であり、簡単ではない」ということであり、
「価値観にはすべて、それに至る過程があります。まずその理解がないと話ははじまりません。どんなに普遍的で正しく思えることでも、「もしかしたらじぶんのスタンダードは、その人のスタンダードとは違うかもしれない」と想像する根本的な配慮が、今は全般的に欠けているのではないでしょうか。」
に尽きるだろう。

それに関して、高橋健太郎さんが加えた批判は「姿勢てして全く同意できない」「背景となる理由が推測しかできないうちは、外の人間は意見すべきでないって、何なんだろね?」だった。

彼の論旨はある意味明快で、「外から圧力こそが彼らには必要なのでは? 差別する奴らの「理由」を知るべきというなら、差別されている人々の「状況」の方がずっと知るべきことだろう。」
というツイートに集約されると思う。

これが間違っているとは思わないし、ある種、正論であるのだろうが、ただ、この「ストレートな正義」こそが、森本さんの危惧しているものではないかと思ったのが私のツイート。
とりわけ、「姿勢として全面的には同意できない」という発言なら理解できるが、彼は「まったく同意できない」とまで言い切っている。

さらに、「背景となる理由が推測しかできないうちは、外の人間は意見すべきでないって、何なんだろね?」と書いているが、そもそも森本さんはそんなことは一言も書いていないって。

なので私は、
「外からの圧力という言葉を簡単に振りかざすのは「民主化」を振りかざす米国と同じような傲慢さでは?」
と疑問を呈したわけです。

実際に、違う文化圏に、いわゆる「欧米先進国キリスト教文化」の価値観を押しつけてトラブルになることは少なくない。いま、イラクやアフガンが泥沼になっているまさにその主要な原因の一つでもある。

でも、誤解しないでほしかったのだが、私はこういう熱い人は嫌いではないんだ。

それに対しての高橋氏の反論が、
「外からの圧力なしにアパルトヘイトがなくなったと思いますか?」だった。
http://twitter.com/kentarotakahash/status/25352356419

これにしたって、間違っているかというと、間違ってはいないよ、全然。
これに関しては、私はかつて論文でも触れてるぐらいだからねえ。
http://www.amazon.co.jp/グローバル世紀への挑戦―文明再生の智慧-片岡-幸彦/dp/4892596256/ref=sr_1_1?s=gateway&ie=UTF8&qid=1285299671&sr=8-1

けれど、議論としては、それで結論にするのはまずい。なぜならこれも
「アパルトヘイトは、『外圧のおかげで』なくなった」という単純な問題ではないからだ。

なので、私の答えが
「アパルトヘイトがなくなったのは、何より南アの人々の自覚と彼らの闘いがあったから。外からの圧力は支援に過ぎない。外からの圧力でアパルトヘイトがなくなった、というのは思い上がりも甚だしい」
http://twitter.com/nobuyoyagi/status/25353361340
ということになるわけです。

にもかかわらず、それに関しての彼の答えが
「そんなことは言っていない」
http://twitter.com/kentarotakahash/status/25354064812

で、この時点ですでに議論は崩壊している。

つまり、私は「状況打開には、まず内部からの強い動きがあるべき。外部からの圧力だけでは難しい」ということを言っているわけだ。
また私は「支援を口にするのがいけない」などとは一言も書いていない。
しかし、彼には、これが、私が
「支援を口にするのがなぜいけないのですか」と反論するネタにされてしまう。
http://twitter.com/nobuyoyagi/status/25356030025

むろん、意見を言うなともまったく言っていないのに、彼は
「人が殺されているような問題について、「殺す側の理由が分からない」という理由で意見が言えない、なんておかしいでしょう?」
http://twitter.com/nobuyoyagi/status/25356128901
と方向性のまったく違う反論をする。
こうなると、もう身のある議論にならない。

要するに、高橋氏にとっては
「外からの圧力という言葉を簡単に振りかざすのは「民主化」を振りかざす米国と同じような傲慢さでは?」というのが、イコール「意見を言うな」という意味なのだそうである。
(しかも後に、「傲慢」という言葉をご存じなく反論なさっていたこともわかった)

一方で、私は、高橋氏の
「外から圧力こそが彼らには必要なのでは? 差別する奴らの「理由」を知るべきというなら、差別されている人々の「状況」の方がずっと知るべきことだろう。」
という文章に対して、「差別する側の事情を知る必要はない」という要約を行った。

これに関しては、ちょっと乱暴であったかもしれないが、しかし、通常、日本語では
「Aをやるべきというなら、ずっとBをするべきだ」といえば、「Aは特にやらなくてよいが、Bはやるべき」という意味になる。
だから、それほどトンデモな要約とは言えないが、これにまた高橋氏は、「自分はそんなことを言っていない」とヒステリックに噛みついてきた。

自分は論理の破綻した要約を行っておいて、他人が少しでも自分の文章に改変を加えると「そんなことは言っていない」というダブルスタンダードを「感情的にならずに」主張する人との会話は非常に難しい。というか、ほとんど不可能である。
感情的になっているのなら、「言葉の行き違い」で済むのだが、ほんとに感情的になっていないのであれば、「頭が悪いのかも」という結論になってしまうからだ。

さらに、Twitterの短い文章の中で「」はいろいろな用途に使いうる。
それは「会話」であることもあるし「引用」であることもあるし、「要旨」であることもありうる。強調したい単語を強調する意味にも使う。
それをいちいち区別しなければわからないと言われたことはない。

というのも、それを判断するのは読解力の範疇であると思うのだが、ここで、どういうわけか、それに対して、高橋氏は噛みついてきた。どの「」が引用でどの「」が要旨であり、またそうでないのかを説明しろと言うのだ。
Twitterの限られた文字数の中で、それを最初から遡って説明できるわけはないのだが、それに対して「説明がない」と言われても困る。そこまで読解力がないのだろうか?

また、私が、「外圧」と「支援」は違うものだと書き、あとで、「外圧は支援のひとつの形態ではあり得ますが、決してイコールではありません。外圧でない支援だってたくさんあります」
と書いたことに、大喜びで、「あれ? さっきは「全く違うもの」だって言ってたのに。」とツッコミを入れておられるが、これも申し訳ないが、論理学の初歩を理解しておられないとしか思えない。
「AがBでない」ことと、「Aの一部がBに含まれうる」ことは両立するのである。何ら矛盾しない。
たとえば、「ジャズはフュージョンと同じではない」ということと、「ジャズの一部はフュージョンに含まれうる」と言うことと同じだ。


ただ、この議論は、非常に意味のある議論に発展する可能性があった。
それだけに、中途から高橋氏が、かなり感情的な揚げ足取りに専念されてしまった展開は残念である。

外からの圧力をかければいい、というシンプルな意見に私が賛成しかねたのは、

「たとえば、いまの日本のある種の人たちが「外圧」にヒステリックになって、かえって在日の人を攻撃するみたいな。むろん、それを理解してあげるべきという意味ではなくて、そういう事情も知った上で、外からのトライは現地事情を理解して、という意味です。」
http://twitter.com/nobuyoyagi/status/25357471378

ともちゃんと説明している。

これは、海外への支援を考える上でとても重要なことだ。

そして、高橋さんの正義感は決して悪いことではなくて、何度も言うが、そういう意味では、私は高橋さんのピュアな正義感をとても好ましく思っている。
つまり、正義感が悪いと言っているのではなくて、そのピュアさを危ぶんでいるだけなのである。

なぜか。
こういう場合、「うまくいかないかもしれませんが、うまくいくこともあるかもしれない」という論法は、とても危険だからだ。

ゲームならばそれで許される。失敗したところで、ゲームオーバーになるなり、持ち点がゼロになるだけだからだ。

しかし、ゲイフォビアであれ、特定の民族や宗教に対する憎悪であれ、そういったマイノリティへの強い憎悪が存在する環境にあって、安易に外圧をかけることで、何が起こりうるか。
もし、失敗したら、もっと厄介なことになる可能性が十分あるわけだし、その場合、勇ましく「外圧をかければいいじゃん」と言った人に責任が取れるのか、と言えば取れないのだ。代償を払うこともない。

むろん、責任をとる気もないし、自分が代償を払う必要もないから、なんぼでも勇ましいことを言う、という人も世の中にはいくらでもいるが、私は高橋さんがそういう卑怯な確信犯であるとはまったく思っていないので、安心してほしい。単に、その可能性にまで思考が至らないだけなのだと思う。

では、そういう場合、誰が代償を払うことになるのか。
まさに、その弱者の人々であったり、あるいは「安易に外圧を書けた側の人間と見なされる」ジャマイカ在住の日本人だ。
だからこそ、ジャマイカ在住の日本人で、ゲイ問題を憂えている森本さんの意見は、たとえ、自分にとって好ましい意見ではなくても、きちんと耳を傾けるべきであり、「姿勢てして全く同意できない」などと切って捨てるべきではないのだ。

私が言いたいのはそういうことである。
(何度も言うが、ジャマイカのゲイフォビアを容認しているわけでも、放っておくべきだと言っているわけでもない)

文化というのは、一筋縄ではいかないものだ。
たとえば、ゲイに極めて寛容な文化もある。許容どころか推奨されている文化すらある。むろん、そうなるにはそうなった文化的歴史的背景というものがある。

一方で、ゲイフォビアまでいってしまう文化があるのだとしたら、それにも当然、歴史的文化的背景があるはずであり、それを理解した上で、対処することが重要だと言うことだ。

一方で、まったく違うタイムラインで、

「「Stop Murder Music」はジャマイカのゲイの人びとが立ち上げた彼らの権利を守るための組織 J-Flag が英国やカナダの組織と共闘しているキャンペーンですよ。「肝心のジャマイカ人ゲイとの連帯ぬきで押しつけ」なんてことはないでしょ。」
http://twitter.com/taddihno/status/25354376061

「http://bit.ly/cnh9SX とか http://bit.ly/3Ssss6 QT @taddihno Stop Murder Musicはジャマイカのゲイの人びとが立ち上げた組織 J-Flag が英国やカナダの組織と共闘しているキャンペーンですよ。」
http://twitter.com/masataka_ishida/status/25356547021

という貴重な情報も得た。

これらの運動が「外圧」という形でなく、英国やカナダや他の組織と良い形で連動して、少しづつジャマイカの現状を変える方向になっていってくれるのが、もっとも望ましいパターンであることは言うまでもない。

むろん、それは簡単なことではないし、いずれにしても「わかったつもり」になるのも、こういう問題が、「かんたんに解決できる」もっとも危険なことではあるのだろうと思う。

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