絵画とメディア、絵画への問いかけ/東北芸術工科大学 卒業・修了展 東京展 東瀬戸あゆみ「happy – jap <襲来><解説>」について

はじめに
 現在、京都造形芸術大学・東北芸術工科大学 外苑キャンパスにて東北芸術工科大学 卒業・修了展 東京展が開催されている。

 この展覧会で、「アイロニー」という観点から注目されている東瀬戸あゆみの作品「happy – jap <襲来><解説>」がある。この作品に見られるアイロニーは、韓流アイドル、人気解説者を象徴とし、現代人の滑稽なプロパガンダを顕在化させようとする姿勢にある。しかし、私は、これとは異なったアイロニーが在るように感じる。


アイロニーについて
 私の感じたアイロニーとは、絵画を目の前にした鑑賞者ではなく、絵画、あるいは絵画表現に向けられたものだ。
 東瀬戸の絵画に用いられたモチーフは、少女時代、池上彰、といった時代のスーパースター、大日本帝国の国旗を思わす太陽、言語表記による日本、中国の天安門、至ってシンプルに、カラフルに、そして現代的に描かれた無数の人々である。しかしこれらが「現代の日本人に対するアイロニーである」としてしまうことにはいささか同意しかねる。それは、この絵が日本のことを示唆しているということが、時代のスーパースター、大日本帝国の国旗を思わす太陽、言語表記であるのに対して、その絵画の中心に大きく天安門(中国)が描かれているからである。
 つまり、この作品は、象徴的な誰もが解釈しやすい視覚的な体験による記憶の映像世界であると同時に、日本人に対して強く主張するものではない。あるいはそれ以上に別の対象を示唆している。そして、その対象は、東瀬戸の作品が絵画、絵画表現に強烈なアイロニーを放っている重要なものであると私は考える。

 私が東瀬戸の作品に見たものは、インターネット、テレビといったメディアの存在である。現在私たちは、(東瀬戸の絵画を見る時と同様に)Googleの画像検索で、日本、韓国、中国、さらには全世界で撮影された画像を一時的に、また同時に視覚的に体験することができる。そして、東瀬戸の絵画の世界もこれらのメディアにおける視覚的な体験の延長にあるのだ。さらにそれは、絵画が絵画である以上逃れることのできない視覚芸術の性でもある。そして東瀬戸の作品が、絵画表現に対するアイロニーであると考える所以がこの点にある。
 他のいわゆる絵画らしい絵画に比べ、極めて平坦に描かれた絵画からは、一目で現代への批判的な主張が感じられる。そして、その絵画は無機質で単調であるために絵画というシンボリックな一つのカテゴリの危うさを主張するのである。それは絵画を、多岐に渡る絵画表現としてではなく、一つのモノとして、メディアとして心得た絵画の提示であるといえるだろう。そして、多くの複雑な筆跡を残さない画面から、直接的な主張を達成するという点で、絵画表現の曖昧な側面、危うさを象徴する他の絵画作品へのアイロニーなのだ。


絵画に対するアイロニー
 冒頭で、「現代の日本人に対するアイロニー」という見解について触れたが、それもまたこの作品を読み解く上で重要であろう。この点から作品を見ると、そこには現代の日本人の信仰にも似た姿があり、それは現代の日本に対する極めて宗教的な見解である。しかし、東瀬戸の絵画の中に登場するイメージは日本固有の信仰や政治を象徴するものではない。やはり、天安門という中国のイメージが画中に大きく存在している以上、そのコンテクストを無視して解釈してしまうと、他の作品と同様に絵画の危うさを感じざるを得なくなってしまう。それよりも、もはや、六四天安門事件における、権威との民主化を主張する自由派の対立と東瀬戸の絵画による絵画表現への対立を重たり、中国、韓国、日本とイメージが拡散するインターネット時代の視覚体験を見る方が解釈しやすいように感じる。
 また、<襲来>と<解説>という2つのメタファー(韓流アイドルと人気解説者)は、ほとんどの日本人が共有できるモチーフであり、今の日本の趣向を意味しているのだろう。しかし、この2つのモチーフが現代の日本人に共通する趣向の最高峰であるということを意味するとまではならない。この2つのモチーフの間には、趣向の対象である以前に、初めて目の当たりにする際にはマスメディア、あるいはテレビやインターネットといった近代のメディアが横たわっている。そして、その観点から考えれば、ここにもまた、近代メディアに見る視覚体験があるといえるだろう。そして、これらのことから絵画は、絵画表現に対してアイロニーを持つのである。

(また、この絵画が「現代の日本人を描くもの、現代人へのアイロニー」だとすれば、少女時代、池上彰というモチーフを選び、描いた東瀬戸自身へのアイロニーをも持つものでもあるだろう。その意味で絵画は自画像であるとも考えることができるかもしれない。)


それらは本当に絵画なのか、なぜ絵画なのか
 東瀬戸の絵画を、絵画表現、視覚芸術へのアイロニーとして解釈し、また彼女にとっての絵画は一つのメディアであると考えれば、そこにはマスメディア、映像という「近代メディア」と、絵画という「古代メディア」の対立を見ることができる。それは、絵画の在り方を再定義する必要性を持った問題でもあるのだろう。
 絵画よりも機能的な写真、さらにはビデオが用いられるマスメディアやインターネットがある状況の中で絵画がどうあるべきか、それはマスメディアの危うさを提示することでもある。そしてそのことが、絵画の役割なのか、あるいは、古典的な偶像の対象が絵画の役割か、はたまた絵画はマイノリティーなものであるべきか、それともマジョリティーなものであるべきか、美術館に行って絵画の目の前に立つ我々にとって絵画とは何か、私たちは絵画の何を見ているのか、画家は何を描いているのか、果してそれは本当に絵画であるのか、絵画表現であるのかと、東瀬戸の絵画は、現代の絵画の諸問題に真っ向から向き合うと共に、展示されている他の作品へと問いかけている。

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