agencyboss

y,yamanaka · @agencyboss

9th Mar 2011 from Twitlonger

明日3月10日は「東京大空襲」の日です。
御存知無い方は、出来ればお読みください。


3月10日

昭和20年3月9日22:30警戒警報発令、
二機のB29が東京上空に飛来して房総沖に退去したと見せかけ、都民が安心した10日00:08に第一弾が投下された。
東部軍管区司令部はまだ気付いておらず、
当然ながら空襲警報も鳴らない。

00:15空襲警報発令、
それから約二時間半にわたって波状絨毯爆撃が行われた。
各機平均6トン以上の焼夷弾を搭載した
344機のB29の大群が、
房総半島沖合から単機または数機に分散して
低高度で東京の下町に浸入した。
都民の虚をついて来襲したB29の大編隊は、
低空からアルミの細片をばら撒いて
日本軍の電波探知機を無能にし、
機体を捉えたサーチライトには機銃掃射を浴びせかけた。
B29の先発部隊が江東区・墨田区・台東区にまたがる
40k㎡の周囲にナパーム製高性能焼夷弾を投下して
火の壁を作り、住民を猛火の中に閉じ込めて退路を断った。
その後から約100万発(2,000トン)もの油脂焼夷弾、
黄燐焼夷弾やエレクトロン(高温・発火式)焼夷弾が投下され、
逃げ惑う市民には超低空のB-29から機銃掃射が浴びせられた。
折から風速30mの強風が吹き荒れて火勢を一層激しいものにし、
火の玉のような火の粉が舞い踊り、
強風に捲かれた炎が川面を舐めるように駆け抜け、
直接戦争とは関係の無い一般市民は
次第に狭まってくる火の壁の中を逃げまどいながら、
性別も判らないような一塊の炭と化すまで焼き尽くされた。



縁者が引き取った遺体  約20,000人

無縁仏・行方不明者    約88,000人

 

5月24~25日

24日には250機、25日にも250機のB29が
東京西部の焼け残った地域に飛来し、
焼夷弾による波状絨毯爆撃を行った。
米軍の記録
「B29は最後の仕上げをした。東京は両日の爆撃で6,908トンの焼夷弾に見舞われ、約30k㎡の市街地が焼かれた。そして東京は焼夷弾攻撃のリストから除外された。」

米軍指揮官の論理
本土空襲の指揮を取っていたカーチス・E・ルメイ将軍は、
明かに非戦闘員を狙ったとする批判に対して、
戦後の回想記のなかで次の様に述べている。

「私は日本の民間人を殺したのではない。日本の軍需工場を破壊していたのだ。日本の都市の民家は全て軍需工場だった。ある家がボルトを作り、隣の家がナットを作り、向かいの家がワッシャを作っていた。木と紙でできた民家の一軒一軒が、全て我々を攻撃する武器の工場になっていたのだ。これをやっつけて何が悪いのか…。」
カーチス・E・ルメイ将軍は、
グアム島在米爆撃隊司令として、
広島・長崎に投下された原子爆弾にも深く係っていた。

昭和39年、日本政府は
「日本の航空自衛隊の育成に協力した」
との理由から、カーチス・E・ルメイ将軍に対して
勲一等旭日大綬章を贈っている。
時の総理大臣は、後にノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作だった。








Reply · Report Post