【原発チルドレン・2】

1→ http://www.twitlonger.com/show/98811b


続>むかしといまのはなし。とあるおうちのはなしです。



 わたしの母の生家は、福島第一原発のすぐそばの町に「あった」(既にその家は、町ごとは事実上消滅し解体されつつあるので、「あった」にしよう)。

 母の父親。
 祖父のことを、よく思い出す。



 10年前に他界した祖父は、1960~70年代、第一原発の建設の際、地域を真っ二つに分断した反原発運動に、身をすり減らしていた。常磐炭鉱が、なくなったころ。昔の話だ。

 東京や、全国からいろんなひとが町にやってきていた。いろんなひとが、いろんなことを言っていった。

 祖父は働きながら、自前で炊き出しをし、おにぎりを何十個も毎日作り、集会の応援にいった。戦後復興、高度経済成長期。東京からダンピングされてくるお金の力に、自炊のおにぎりが、勝ち目があるわけはない。

 いろんなひとが、誰かが、選挙や投票でお金をいっぱい町にまいた。よくわたしは知らないけれど、まあ、いろんな形で。原発が、建った。



 「危険だ」「危険だ」「いけない」「いけない」「ダメだ」「ダメだ」

 祖父は、何遍と、何万回と繰り返した。

 いつの間にか、東京や全国から来ていたいろんな人達は去っていた。誰もいなくなった。

 祖父の話を聞く人は、誰もいなくなった。

 祖父は、何も語らなくなった。



 わたしにとっての祖父は、ひたすら寡黙なじいだった。

 母の生家に遊びに行くと、ホッキごはん(請戸港や小名浜港でホッキ貝という貝がとれる。それを炊き込んだごはん)が出てくる。ばあちゃんの炊くごはんはやわらかくて「ねちょっ」としていた。おにぎりはばあちゃんの「癖」となっていて、遊びに行くと必ず渡された。ホッキおにぎり。じいは植木が好きで、それから犬を一匹飼っていた。植木と犬。



 第一原発の建物は、子ども心に不気味なものだった。あの水色の大きな四角の中に「ホウシャノウ」があることは、幼稚園生のときに母から聞いた。「ホウシャノウ」。

 原発のすぐ近くにある、ピカピカした東電の公園で、不気味な「水色の四角」を見ながら、ブランコにのった。「ホウシャノウ」。



 「原発で あかるいまちを つくりましょう」

 原発の周辺は立派な外灯が立ち並んでピカピカ光っていた。東京電力の施設がピカピカと光っていた。東京につながる送電線が、どーんと立ち並んでいた。

 「あかるいまちを つくりましょう」
 

 
 そして、祖父が口を閉ざしてから、40年以上が経った。 


 東電の、下請け関連企業の作業員の身内もできた。

 その人は、いま、第一原発に向かっている。一作業員として。小さな小学生の子どもがいる。「誰かがいかねっきゃなんねえべ」と、言っている。



 東京の人も、たぶん地球上どこのひとでも。

 わたしたちは、みな「知っていた」のではないだろうか。そうではないだろうか。「危険」なことも、「ダメ」なことも、「知っていた」のではないだろうか。

 「想定外」ではなく、想像がつくから。「想定内」だから、恐れるのではないだろうか。

 「知っていた」、そう、わたしも知っていたよ。「危険」だって、知っていたよ。知っていたよ。



 じいはたぶん、すべてに、自分自身を発見していた。
 じい、そうでしょう。


 
 40年が経った。

 じいはもういない。

 母は、父の町に嫁いだ。「あかるいまち」を去り、ムーミン谷でわたしが産まれた。

 原発避難ギリギリ最前線ラインのムーミン谷では(そのうちムーミン谷もなくなるかもしれないけれど)、大正前から谷で使ってきた、水源が地震で枯れてしまった。戦争があっても、何があっても枯れなかった水が、枯れた。山の水が、出なくなった。

 谷の近所で唯一のこった専業農家であるおじさんの家は、先週畑の作物をすべて捨てた。準備しておいた、肥やしと種をまけない。あんなにおいしい野菜。東京でお世話になった人におじちゃんの家の野菜を送ると、いつも喜ばれた。

 谷の近所の友達は、帝王切開で先週赤ちゃんを産んだ。元気な女の子を産んだ。

 じいの家に残っていたばあちゃんは、火傷をして遠く離れた病院にいる。

 東電下請けに勤めている親戚が、第一原発に向かう。小さな子どもを残して。「誰かがいかねっきゃなんねえべ」と言っている。



 40年が経った。

 じい、知っていたよ。
 <わたし>は、「告白」します。



 とあるおうちの、はなしです。
 オールドタイプな、はなしです。
 
 覚え書きとして。
 いつか、どこかで長いおはなしに。

 

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