検察庁は「割れ(自白させろ)」とともに「立てろ(起訴しろ)」という方向で若い検事を鍛える。経験不足と言われればそれまでだが、(上司から見て)起訴できるはずの事件を不起訴の方針で決裁に上げると、これまた厳しく叱責される。
 検事数年目だったと思うが、僕は被疑者の弁解を信用して、不起訴の方針で決裁に上げたところ「お前、これは釈放なんかする事件ぢゃないぞッ!」と一喝され、既に釈放の方針を警察に伝えていたものだから、後始末が大変だった。
 僕以外の若手検事も、「弱気(起訴か不起訴か迷ったときに不起訴を選択すること)」の姿勢は厳しく咎められていて、僕だけでなく、複数の若手検事が憔悴しきっていた。
 むろん、僕らの世代もしょせんは上司の世代から見れば「打たれ弱い若者」だったのは否めないので、これは検察の問題と言うより、若い人間全般が軟弱になっているという問題なのかも知れない。
 が、言いたくないが、こちらも普通に諭してもらえば理解はできるし、少なくとも二度、三度と同じ失敗をすることは稀なのだから、もう少しこらえてもらいたかった。若い検事は全ての事件が初体験だから、いきなり怒鳴られては、萎縮はしなくても「やってられるか」という気持ちになってもおかしくない。早々と検察庁から去った同期たちは、その意味で根性はあったのだと思う。
 検事1年目の話に戻るが、東京地検刑事部副部長の殆どが特捜畑の人だったそうで、新任検事の決裁はとにかく怒鳴りつけることの連続だったらしい。しかも「バッヂを外せ!」とまで怒鳴っていたとか。
 これまた若者が弱いと言われればそれまでだが、当時は検事志望者は必ずしも多くはなく、教官が手練手管を尽くして任官させた新任検事なのに、いきなり「辞めろ」という指導はどうかと思う。
 少なくとも、仮に僕が決裁官になったら、絶対にそんなひどいことは言わない。
 が、特捜部出身の人は、被疑者や参考人を恫喝して暮らしているから、部下を怒鳴ることなど、呼吸するのと同じ感覚だったのだろう。逆に、かわいい(はずの)部下ですら怒鳴りつけ、それがタメになる教育だと信じているのだから、いわんや被疑者を怒鳴りつけるのもまた「ためになる」すなわち正義だと勘違いしているのではないだろうか。
 かく言う僕も、佐賀市農協事件ではもちろんのこと、正直に言えば、それ以前にも被疑者を怒鳴りつけたことがある。
 検事は、怒鳴っている現象を「叱っている」と表現して正当化しているふしがある。
 本当は叱っているのではない。怒っているのだ。いや、どちらでもいいが、端から見れば怒鳴っていることは間違いない。
 被疑者の取調は医師が患者さんを問診することとは違うから、ある程度の「厳しい追及」は必要だとは思う。
 ただ、過剰な自白を引き出すためだったり、あるいは犯人でもない人に対して「厳しい追及」の名の下に、恫喝が常態化するのはまずいだろう。
 検事が恫喝に対して抵抗感が薄らぐのは、そもそも内部での決裁の場で恫喝されることに慣れ、さらには「上司から厳しく怒鳴られて鍛えてもらった」と肯定的に受け止めているからだと思う。現に、「バッヂを外せ」と怒鳴られた同期が、「あれで鍛えられた」と言っていたのを聞いて、「弱い検事」だった僕は唖然としたものだ。

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