satoshithem

さとし · @satoshithem

24th Oct 2011 from Twicca

【実録!平成日本タブー大全Ⅰ(2005年6月刊行)】より~石井紘基刺殺事件と巨大な謀略の影‐ベンジャミン・フルフォード(米国経済誌『フォーブス』元アジア太平洋支局長) #事件 #政治 #民主党 #天下り   

その朝、石井紘基はカバンを持って家を出た。彼とロシア人の妻の間に生まれた娘・石井ターニャによれば、石井は普段、荷物が少なければカバンを持ち歩くことはなかったという。カバンを抱えて出歩く日は、その中に必ず沢山の書類があった。
「父は、仕事のことはほとんど手帳一冊で済ませ、書類が少ないときは、わざわざカバンを持ち歩きませんでした」
石井にとって、その日のカバンの中身には特別な意味があった。納められているのは石井が熱心に取り組んでいた仕事の成果であり、彼がそれを使って、近々何らかの行動を起こそうとしていることを、周囲の人々も知っていた。
しかし、そのカバンの中身と手帳は、遂に日の目を見ることなく、忽然とどこかへ消えてしまったのである。
             
2002年10月25日の午前10時過ぎ、民主党衆議院議員であり、同党屈指の論客だった石井は、凶漢の刃によって、その命を絶たれた。
警視庁は、惨劇から一夜明けた26日午前6時半過ぎ、「石井議員を刺した」として出頭してきた右翼の男、伊藤白水を逮捕。昨年6月18日には東京地裁で、伊藤に無期判決が言い渡された。
東京地裁は判決理由の中で、現在もなお、犯行動機の詳細が明らかになっていないと指摘してはいるが、伊藤を犯人と断定したことになる。判決を不服として控訴審で争っている伊藤も、自分が犯人であるとする供述を覆してはいない。
しかし石井の遺族と彼の同志、そして私は、この判決をまったく受け入れていない。
それ以外の人々も、彼の業績や事件の詳細を知れば、「借金を断られたことへの私怨」とか、「支援者との約束を守らないことへの義憤」などという犯人の説明を言葉どおりに信じる人は少ないだろう。
生前の石井とは面識はなかったが、名前は方々で耳にしていた。今はただ、彼の業績の詳細に触れるのが遅きに失したことが悔やまれる。
石井は、不正に対して一貫して厳しい姿勢を貫いた議員だった。道路公団改革、特殊法人改革に積極的に取り組み、国政調査権を行使して権力者の不正追及に全力で取り組んでいた。
つまるところ私と石井は、同じターゲット――国民のカネを掠め取る「政・官・業・ヤクザ」の4者連合を、別々のルートから追っていたのだ。
私はヤクザたちが蠢く地下水脈からそれをたどり、石井はその地下水脈にカネを注ぎ込む政治家と官僚の仕業から暴こうとしたのである。
             
●ヤクザ・リセッションとRCC
             
私が外国人ジャーナリストとして長年見続けてきたのは、不可解な日本経済の実態、とりわけ「日本はなぜ、不良債権処理ができないのか」であった。そして、その結論を私は「ヤクザ・リセッション(ヤクザを主因とする景気後退)」と表現している。
実を言えば、「ヤクザ・リセッション」は私が最初に指摘したものではない。名づけたのは、警察官僚と内閣官房内閣広報官を歴任した宮脇磊介である。雑誌『SAPIO』で宮脇と対談した際、彼はこんなことを言っていた。
〈闇社会と日本企業の関係は、バブルによって急速に深まりました。だからバブルが崩壊し、不良債権問題が話題になりはじめた時、これは大変なことになったという確信が私にはあったのです。
一方、エコノミストたちはどうかといえば、「1991年が明けたら景気は回復する」と、そろって楽観論を述べていた。私は経済の専門家ではありませんが、長らく暴力団対策にかかわった者として、彼らの言う景気循環理論とやらがいかに空疎なものであるか、そんな生易しいことではすまないと感じていたのです〉
日本経済、とりわけ不動産取引へのヤクザの浸透ぶりが明らかになったのが、95年の住専(住宅金融専門会社)破綻処理問題だった。
当時、6850億円もの公的資金投入の是非を巡って大論争が起きたが、私がさらに問題としたのは、住専の貸出先の大半がヤクザだったということだ。バブル期、不動産取引に対する銀行の貸し出しには総量規制がかけられたが、住専は例外として扱われた。これを認めたのは当時の大蔵大臣で、住専は大蔵官僚の天下り先だった。要するに、政治家と官僚がヤクザにカネを流すための抜け穴を作ったのだ。
これと同じことは、今も続いている。
たとえば、バブル期に10億円の値がついていた物件は、今では1億円の価値しかない。この物件を担保に、ヤクザやヤクザの影響下にある相手にカネを貸した銀行は、不良債権を抱えている。
この不良債権を整理回収機構(RCC)が5億円で買い取れば、銀行はその半額を償却したことになる。しかし、担保物件の価値は1億円しかないから、RCCはさらに安値でこれを処分することになる。競売にかけられた物件を、元の持ち主であるヤクザが裏で手を回し、競り落としているとしたら――。
ここではヤクザを例に挙げて述べたが、利益を得るのは政治家かもしれないし、官僚かもしれない。あるいは、彼ら皆が分け前にありつくケースだって考えられる。
そもそも、日銀や旧大蔵省は、92年ごろには大手銀行の不良債権が、少なくとも200兆円あることを知っていたはずだ。しかし、実際に公表された額は、その10分の1以下でしかない。もし不良債権を抜本的に処理すれば、ヤクザと通じていた政治家や企業への責任追及が始まる。官僚が、彼らを守ったのである。
それだけではない。担保物件の価値が劣化するまで不良債権が塩漬けにされ、RCCを通じて叩き売られる構図は、政治家やヤクザの利権のために作られているとしか思えない。
こうして「政・官・業・ヤクザ」の4者連合が、国民のカネを食い合っている。これこそが「ヤクザ・リセッション」の本質だ。
             
●日債銀社長の不可解な“自殺”
             
「ヤクザ・リセッション」の内幕を暴くことは、誰にとってもやっかいなことには違いない。ましてや、その中枢に近いところにいる人物が改革に取り組もうとすれば、死をもって「裏切り」を償うことにもなりかねない。
日銀で信用機構局長、大阪支店長、信用機構担当の理事などを歴任した本間忠世は、90年代に相次いだ金融機関の経営破綻に際し、陣頭指揮をとった人物だ。とくに97年11月の山一證券や北海道拓殖銀行などの連続破綻では、大規模な日銀特融の発動を推進した。
本間は汚職事件の監督責任をとるかたちで日銀を去ったが、日本債券信用銀行(日債銀、後の「あおぞら銀行」)を買収したソフトバンクなどの企業連合から請われ、2000年9月4日、同行社長に就任。98年に経営破綻して一時国有化された後、民間銀行として再出発を図っていた日債銀を「生まれ変わらせたい」と抱負を語っていた。
しかし彼は、自らが練ったプランに手をつけることすらできなかった。社長就任から16日後、大阪市北区のホテルで遺体となって発見されたのである。
ホテルの室内から複数の遺書が発見されたこともあり、大阪府警は自殺と判断した。だが、部下や友人の間からは「一緒に飲んだときは元気そうだった」「死を選ぶほど悩んでいたとは思えない」などとする声が続々と上がった。
客観的に見ても、本間の死んだ状況には不可解な点が多い。週刊誌『女性セブン』によると、本間の部屋の隣室に宿泊していたタレントの森公美子が、インターネットのチャットにその夜のことを書き込んでいたという。
書き込みによれば、本間の部屋からは叫び声やうめき声が聞こえ、森はホテルに苦情を言ったというのだ。しかし雑誌が発行されたときには、そのウェブページはすでに閉鎖されており、森はその件に関するインタビューに応じていない。しかし、私は彼女のマネージャーにその事実を確認している。
また、本間は首に紐が巻きついた状態で、バスルームで発見されたという報道があるが、当初の警察情報では「バスルーム」ではなく寝室の窓際だった。しかし、そのホテルの寝室は、客が首吊りなどできないような作りになっている。その疑問を警察にぶつけたところ、警察は遺体の発見場所から「バスルーム」に変えて記者発表したのだ。
さらに本間の息子、正純によれば、本間の遺体は司法解剖されず、すぐに火葬された。いくら遺書があったとはいえ、アメリカなどでは考えられないことだ。
いったい、これをどう判断すればいいのか。日本の裏社会に通じた人物に情報を求めたところ、彼はこともなげにこう答えた。
「それは殺し屋(ヤクザ)が拳銃で脅して遺書を書かせ、鎮静剤を打って首を絞め、首吊り自殺に見せかけたんだ」
             
●捜査に圧力をかけた自民党の有力議員
             
本間は何者かに殺害されたのだろうか。真相は分からない。しかし仮にそうなら、その理由は何だったのだろうか。
日債銀は、98年に少なくとも360億ドルもしくはそれ以上の負債を抱えて破綻したといわれるが、実際には1330億ドルもの不良債権を抱えていた。日債銀を再生させることを決意した本間は、実態の洗い出しに取り組もうとした。もしかすると、それが虎の尾を踏むことにつながったのかもしれない。私は日債銀の貸し出しリストを入手したが、貸し出し先の約半分が、企業舎弟や実態のない会社で占められていた。
実際、日債銀の歴史は疑惑にまみれている。「自殺」事件は、本間のケースだけではない。政治家やヤクザへの不正融資疑惑も多く、とくに北朝鮮系金融機関への不可解な財政的支援は、本間の件と深く関係している疑いがある。
戦後、在日朝鮮人の経済基盤となっていた朝銀信用組合(朝銀信組)は、全国に38の組合を擁していた。しかし、97年5月の朝銀大阪を皮切りに、99年5月には13組合がいっせいに破綻。さらには、これらの受け皿として新たに設立された広域信組までが二次破綻した。受け皿組合の破綻まで含めると、計16もの組合が次々に倒れたことになる。
問題なのは、これらの組合が北朝鮮への不正送金に使われていたことである。そして日債銀の貸し出し記録には、朝銀信組への何百万ドル、あるいは何億ドルもの疑わしい融資の記録が残されているのだ。
ちょうど本間が日債銀の社長に就任したころ、日本政府はろくに調査もしないまま朝銀信組の救済を決め、公的資金を注入する準備を進めていた。そこで日債銀が、朝銀信組に対する巨額の不良債権を新たに公表すれば、政府の救済策はご破算になる可能性があった。
朝銀信組に利権を持っていたのは、北朝鮮政府だけではない。少なくない数の日本の政治家が、朝銀信組に隠し口座を持っていると、かねてから言われてきた。実は、対北朝鮮政策では最大の影響力を誇ってきた自民党の政治家が、「本間の死に対する捜査に関して、大阪府警に圧力をかけた」との証言を、私はふたりの人物から得ているのだ。
いくつかの金融事件に関わった元日銀幹部が言う。
「たしかに、こうした事件のほとんどは闇社会とのつながりの中で起きている。日債銀の本間君の件もそうだけど、住友銀行の名古屋支店長が殺されたのも、阪和銀行の副頭取が殺されたのも、真相を知っている人がいるとしても、絶対に話さない。まして、新聞記者が書くこともない。噂のレベルだ、ウラがとれない、なんて言っているけど、本当は怖いからなのかもしれない」
総会屋への利益供与事件に関与した第一勧業銀行の元会長も、97年6月29日、遺体となって発見されている。元会長は特捜部の取り調べを受けている最中、自宅で首吊り遺体となって発見された。
不良債権が日本経済を揺るがす問題であるということが知れ渡り、その調査が始まった97年から数えて、本間は7人目の大物犠牲者となった。他には、政治家のウラ金について証言しようとした議員、中小の金融機関を監督する日銀理事、旧大蔵省の金融取引管理官、同じく旧大蔵省の中小金融課課長補佐らがそこに含まれる。
そして私の知る範囲では、石井紘基こそ、彼らに次ぐ犠牲者なのである。
             
●消えたカバンの中身   
             
石井が殺された直後に出た『週刊朝日』(02年11月8日号)は「石井紘基代議士が迫った闇 右翼 『刺殺』2日前、本誌記者に語っていた…」と題するレポートを掲載した。その中で、石井と記者のこんなやり取りを紹介している。
〈実はその数週間前にも、こんなことがあった。別の記者が民主党議員の秘書から、
「石井先生のところに政界を震撼させるすごいネタが入ったみたいだ。当たってみるとおもしろいかも……」
と聞かされたのだ。記者が石井氏に当たったところ、
「まあまあ、そう焦りなさんな。いま証拠固めの最中だから。いずれ時期を見て国会で質問する。そのときは連絡するよ。これが表ざたになったら、与党の連中がひっくり返るような大ネタだよ」
と言って、たばこをぷーっとふかした〉
石井からこうした言葉を聞かされていた人間は、他にも複数いる。実際、石井は殺された日から3日後の10月28日、衆院金融委員会で質問に立つ予定になっていた。それと関連して、石井は事件当日の昼ごろに委員長(自民党議員)と面会する予定にもなっていたのだ。
用件は質問の際に用いる資料のことであり、外出の際に持っていたカバンの中には当然、その資料が入っていた。しかし事件後、その資料が消えているのである。
石井ターニャは語る。
「父の手帳とカバンの中の資料が、警察の押収品目録に記載されていないのです。目録にカバンの内容物として書かれているのは、数個のクリップと輪ゴム、メモ、案内状などの細々としたものだけ。普段から手ぶらで出歩いていた父が、それだけの荷物のためにカバンを持って出かけるなんて考えられません。それに、手帳が見当たらなくなると大騒ぎする人でした。手帳やカバンの中にあるはずの書類がないのは不自然だ、もし盗られたのなら犯行動機に関わると何度も警察に訴えているのに、いっこうに取り合ってくれないのです」
しかも事件の後、普通、その場で作成されて手渡される押収品目録が、なぜか後日、所轄の北沢署で作成されている。証拠写真としてカバンの外観を撮ったものがあるのに、内容物写真が一枚もないというのも不自然だ。
また、石井を迎えにきて、偶然現場に居合わせた衆院車両部の運転手は、「犯人は犯行後、(犯人の)黒いカバンの中を見ていた」と証言している。それが何のための動作だったかは明らかにされていないが、石井のカバンの中身が消えている事実とともに、重視すべき点だろう。           
●事件前から続いていた尾行             捜査の不審点、未解明の部分はこれだけではない。
たとえば石井ターニャは、事件直前の午前9時半、インターフォン越しに「植木屋」を名乗る男の訪問を受け、これを断っている。朝の9時半に植木屋の営業というのも妙だが、普通石井宅ではこの2、3日前に、植木屋と庭の手入れについて相談したばかりだった。
後日、マスコミなどが周辺住民に聞き込みを行ったところ、周囲100軒でこの「植木屋」の訪問を受けたところは皆無だった。さらに驚くべきは、植木屋について警察が聞き込みをした民家は100軒中、わずか2、3軒しかなかったというのだ。事件との因果関係は定かではないが、石井宅周辺で不審な動きが相次いでいたのは確かだ。
「事件の3ヵ月ほど前、家の前の電柱に何か黒い箱のようなものが取り付けられるのを、母が見ていたんです。それは事件からしばらくして取り外されました。でも偶然、事件とは無関係なテレビ番組を見ていたとき、画面に映った盗聴器を見て、母が『あれと同じものだわ!』と叫んだんです」(石井ターニャ)
石井の妻によれば、石井は事件前からずっと車に尾行されていたという。警察に調査を依頼したが、警察は何もしなかった。刺殺犯とされている伊藤は、車を持っていない。
裁判の過程でも、謎は深まった。伊藤はある雑誌に寄せた「手記」の中で、犯行の模様について回想している。
〈私は後ろから左手を伸ばし石井の左肩に手を掛けて仰向けにして倒れた石井に馬乗りのように跨り右手を振り上げて石井の心臓目掛けて刺身包丁を振り下ろした。が、下から石井は両手で私の右腕を掴んだ。
2、3度押し引きしたが私は素早く包丁を右手から左手に持ち替えて石井の胸に振り下ろした。柄の部分まで深く突き刺したのを確認したのを確認して包丁を刺したまま左手を離して立ち上がり(後略)〉
まるでひと振りで急所を捉えたかのような表現だが、裁判所に証拠として提出された写真では、石井のからだには複数の創傷があった。腿の裏側も傷つけられており、「馬乗りになった」との証言とは矛盾する。
さらに、石井は顎から首までパックリ割れるほどの傷も負っているが、「警察は、伊藤が出頭の際に持ってきたバンダナからは、血液が検出されたと言っていたのに、服には返り血を浴びていないことになっているのです」(石井ターニャ)。
           
●石井の顔を蒼白にさせたもの
             消えた資料はどんな内容だったのだろうか。おそらく、RCCに関連するものだったろう、というところまでは見当がついている。ジャーナリストとしての私の取材と、国政調査権を活用した石井の調査は、ともにRCCという不良債権の「ゴミ箱」に行き着いたのだ。
前述したように、不良債権がRCCを通じて処理される過程では、担保物件が評価額を大きく下回る値段で叩き売られ、何者かが莫大な含み益を手にしている。それはとりもなおさず、不良債権処理に投じられた公的資金や、国庫に還元されるべきカネが、横取りされていることを意味する。この仕組みが「政・官・業・ヤクザ」の4者連合によって、システマティックに運用されていればどうか。それこそが、日本経済のタブー中のタブーと言えるだろう。
私は殺害された石井のことを調べはじめてから、何度も公安関係者に尾行されてきた。「彼について何かを書くつもりですか?」と何度も聞かれた。
また、伊藤の裁判を傍聴した帰り、石井の妻とその娘・石井ターニャとともに、裁判所の近くにある喫茶店で話をしていた。すると、大勢の右翼が店内に現れ、我々の隣の席に居座った。その日は、公安関係者も私を尾行した。なぜそこまでするのだろうか。事件が単独犯による犯行ならありえない。私には、国家権力が石井の殺人に関わっているとしか思えないのだ。
石井ターニャは次のように証言している。
「事件前の10月19日、父は知人の会社事務所に駆け込み、『今怪しい車につけ回されていた』と言っていました。また、23日に帰宅した父を見た母は、『誰かにリンチをされたような雰囲気だった。聞いてはいけない雰囲気だった』と言っています。この日、父は親しい支持者の方に『今度の問題は、これまでとは違う』と言ったそうです。その方によれば、父の顔色は蒼白になっていたとのことでした」
防衛庁汚職や外務省のODA利権を暴き、オウム真理教や統一教会に立ち向かってきた石井の顔色を蒼白にさせたものとは何だったのか。
日本は今、国家的破産の危機に瀕している。日本の国が抱える借金は、国債と地方債を合わせて751兆円だが、ここには財政投融資に使う財投債は含まれていない。実際の総計は、1000兆円を超えているのだ。
そもそも日本の国家予算は、「オモテ」と「ウラ」の二重帳簿になっている。政府発表の数字を監視しているだけでは、不良債権の膨張を防ぐことはできない。「オモテ」の一般会計は議会の審議を経るが、「ウラ」の特別会計は議会の審議なしに予算を組めるからだ。しかも、一般会計が約82兆円(04年度)なのに対し、特別会計は330兆円とはるかに規模が大きい。国はここから前述した財投債を発行し、好き勝手に国民のカネを公共事業などに注ぎ込めるようになっているのだ。
こうした内幕を国会の場で暴き、道路公団改革などの端緒を開いたのが他ならぬ石井紘基だった。彼の奮闘によって、国家的破産はわずかながら食い止められてきたが、もう後はない。ベビーブーマー世代が大量に引退する06年、07年、そして巨額の国債償還期限を迎える08年を、乗り切れるとは思えない。
私は指定暴力団のある幹部に、石井の死について尋ねたことがある。彼はただひと言、「知っているが何も言えない」と言って後は押し黙った。石井の死は、またもや闇から闇へと葬られるのだろうか? この事件をひとりの右翼の犯行として終わらせてはならない。         




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