鹿内信隆 - Wikipedia http://p.tl/lsYP

「初めはニッポン放送設立に加わり、後にフジサンケイグループ会議議長を務めた」

「1938年(昭和13年)応召し、予備役召集第1回の士官候補生となり牛込区若松町に置かれていた陸軍経理部に進み、のち主計少尉。軍務時代慰安所設置などに尽力(本人著「いま明かす戦後秘史」に詳しい)。また、日清紡の営業部長で軍と折衝していた桜田武や大日本再生紙社長の水野成夫らと、需給計画を通じて知り合う」

「除隊後の1943年(昭和18年)、鮎川義介の日産コンツェルンが資金的にバックアップしていた日本電子工業の創立、戦後の経済同友会創設に参画。戦時中から仕事の付き合いがあった桜田が鹿内を非常に買い、関東経営者協会の発足で、桜田委員長=鹿内信隆副委員長という労務問題でのコンビを成立させ、これが1948年(昭和23年)4月の日本経営者団体連盟(日経連)設立に至る。

桜田は日本電子工業の常務だった鹿内を引き抜いて、日経連の初代専務理事として迎えて、桜田総理事=鹿内専務理事として再びコンビを組み、戦後の約10年を日本共産党に指導されて各地で起ったラジカルな労働争議を闘った。また桜田の師匠・宮島清次郎が若手財界人を束ねて帝大同期の吉田茂政権を支援したことから、桜田を通じて政財界人脈を拡げることになる。戦後の混乱期に「財界四天王」らと共に「財界主流派」の中心メンバーとして、戦後の日本経済の基盤作りを行い、政財界の舞台裏を取り仕切った人物の一人である。鹿内自身「私のいちばん記録に残すべき時代は日経連時代なんです」と述べている」

「1954年(昭和29年)のニッポン放送設立に加わり、1957年(昭和32年)文化放送にいた水野と協力してフジテレビを開局させた」

「1963年(昭和38年)同局社長。1968年(昭和43年)、産経新聞社社長・フジテレビ会長に就任。1969年(昭和44年)、箱根 彫刻の森美術館館長・フジサンケイグループ会議初代議長を務め、フジサンケイグループ内で絶大な権力を持った。
1982年(昭和57年)、郵政官僚出身の浅野賢澄にフジテレビ会長のポストを譲る。1984年(昭和59年)フジサンケイグループ最高顧問の座に就いた。しかし1988年(昭和63年)、長男の鹿内春雄が逝去したことを受け、再び議長の座に再就任」

「1950年(昭和25年)に関西を地盤としていた産業経済新聞が東京に進出。5年後の1955年(昭和30年)に別法人として株式会社産業経済新聞東京本社を設立すると共に同社社長として勝田重太朗を招請した。勝田は信越放送社長を務めており、それ以前には信州・長野県を代表する新聞社である信濃毎日新聞社の役員を務めていた。相前後して産経社長だった前田久吉が経営に携わっていた時事新報(※福澤諭吉が創刊したが、東京日日新聞に合同していたのを戦後に復刊)を吸収合併し産経時事(東京のみ。大阪は産経新聞)と改題させてとりあえず軌道に乗せている。ここから産経と信州財界のルートが生まれた。
1956年(昭和31年)に水野成夫社長の求めで、信越放送での勝田の後任社長だった野沢隆一が文化放送の専務に就任。文化放送はニッポン放送と共同でテレビ局を作るべく奔走しており、当時ニッポン放送の役員だった鹿内はそれを通じて水野と関わりを持ち、更に水野を介する形で信州財界とのつながりができた。1958年(昭和33年)に前田が経営難を理由に産経を手放すと、当時信越化学工業(信毎と資本的には同系列)常務だった小坂徳三郎(のちに信毎社長)が経営再建のため鹿内を水野と共に送り込もうと工作。これが実現し、鹿内は常務として産経新聞の経営に関わることが出来た。
鹿内(一族)と信州財界は太いパイプで結ばれており、鹿内自身が信州財界に感謝していた証拠もさまざまな形で残っている。信越放送がラジオの24時間放送を開始した際にニッポン放送の「オールナイトニッポン」をネットするなど、フジサンケイグループ系列のラジオ局の番組を優先してネットしてもらえるようになり、長野放送が設立された際ニッポン放送からNBSという略称を譲渡され、さらにフジテレビの番組を優先的にネットしてもらえる様になり(結果マストバイ局化が在長民放局の中で早く進んだ)、長野県上田市武石地区(旧小県郡武石村)の美ヶ原高原に鹿内自身が館長を務める彫刻の森美術館の姉妹館として美ヶ原高原美術館がオープンし長野県を代表する観光スポットとなった。
鹿内は徹底的な合理主義者として知られ、水野が産経新聞社長に就任した際、「部長以上の管理職は全員クビにした方が良い」と進言した。「産経残酷物語」の水野成夫でさえ、この一言には耳を貸さなかったが、のちに産経新聞社の経営が再度悪化した際、「僕の言う事を聞かなかったからこうなったんですよ」と水野を責めたという。水野から引き継いだ事業のうち、プロ野球と琵琶湖畔のスキー場・サンケイバレイを手放し、日本フィルハーモニー交響楽団を解散に追い込む一方、有楽町駅前のラクチョウビルや夕刊フジ(もともと水野が温めていた企画)はフジサンケイグループの収益事業として育成するなど、カネにならない物は容赦なく切り捨てた」

「愛称は「ハイジャッカー」。名付け親は、司馬遼太郎(当時、産経記者)といわれる」

「1973年(昭和48年)、サンケイ紙上に「正論」欄登場(のちに論壇誌として独立する)。右派・タカ派知識人を総動員して反共・国家主義を提唱」

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