細谷雄一氏の新しいコラムが出ているのでコメントを書いてみました。
http://www.newsweekjapan.jp/hosoya/2015/09/post-1.php

まず、まえがきについて。

安保法制の「脱神話化」は個人的には賛成だ。ただしそれは「できるものならそうしたい」ということであって、それこそ政治空間の現実態を踏まえない希望的な主張だと思う。

政治論争に一定の「ノイズ」が含まれるのは良くも悪くも当たり前のことで、これは今回に限ったことではない。たとえば民主党政権時代にいかに多くの「売国」コールが起こったか。つい最近も事業仕分けが堤防を破壊したと騒がれている。政治は当事者間の理性的な議論をどこかで維持しておかなければならないというのは当然だとしても、他方で(どんな政治学の入門書にもほぼ必ず書いてあるように)感情の喚起、印象操作、ネガティヴ・キャンペーンなど、あらゆるものが常に総動員されているのである。Reason and "Rhetoric" という言葉を思い出そう(どちらが本体でどちらがノイズであるか等々をめぐる議論は措く)。

デモはマスメディアや利益政治のネットワークにおいて権力をもたない人びとが使うことのできる一つの動員手段である。しかもこれは憲法で保障された基本的権利である。政治の手段として公式に認められているものであるのだから、脅迫や殺人などではない。マスコミが報道の自由をもち、利益団体が各種ロビイングの自由をもち、大衆が表現行動する自由をもつ。他方でマスコミには人権等にかかわる一定の報道権の制約があり、団体の政治資金提供に関するルールがあり、デモおよび日常生活における物理的暴力等の違法行為に対する制約がある。これらの総体としての「ゲームのルール」の中であらゆる可能なプレイが追求されるのであり、ゲームの参加者はそこで起こりうるすべての事柄に心構えがなくてはならない。

だから「合理的な議論」にコミットする者は、このノイズの存在をいったん括弧に入れて(いったい誰が「殺害予告」したのか? またそれより控えめな行動として、かつて国民皆保険をめぐってヒラリー人形が燃やされたように安倍人形が燃やされたことがあったか、あったとしてそれは禁止すべきか、等々)、広い意味で合理的に議論可能な事柄に集中すべきである。本論を展開する前にいちいちノイズを拾ってこれに「怯えてみせる」のは、それ自体が別の「魔女狩り」に加担することだと認めねばならない(もちろん、わかって書いているのだと思うけれど)。

そもそも、今回の安保法案に反対する人びとは一枚岩ではなく、多様な立場が存在することに留意すべきである。自衛隊の存在自体を否定する者、自衛隊は必要だが海外での活動はNGと考える者、国連平和維持活動はOKだが米軍支援はNGという者、それぞれの立場の背後には数多の理性的議論と感情的傾向が詰まっている。法的整合性を説く者、政治的戦略的(非)合理性を説く者、人間主義的諸価値に立脚する者、三者の論理の一致と齟齬を見据えた上で決断する者。薄いスローガンを繰り返す人もいれば分厚い議論を展開している人もいる。政治勢力は雑多な集まりである。

実のところ、この多様性は安保法制推進派も使うことのできる資源の存在を暗示している。法案に現在反対している人びとを非理性的な魔女狩り騒動を起こす者と表象すれば、多少の修正や説得によって賛成に転じるかもしれない人びとも一緒くたに「非理性的」のレッテルを貼ってしまうことになる。こうした修正派や限定容認派は推進派からのレッテル貼りに不快感をもち、逆に推進派を「政治・人事の機微を理解しない硬直した思考の持ち主」とみなしてしまう。政治は妥協を通じた合意形成の術である。もし自分が賛成派なら反対派の内部に存在する差異に注目してその一番右側から切り崩しを試みると思うのだが、この法案が採決を待つだけの状況にきている現在では、心を石にしてただ可決を待つほうが安全ではあるのだろう。切り崩しのために戦端を開けば、相手からも切り崩しを仕掛けられる可能性があるからである。

続きは(またあとで書くかもしれ)ないです

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